元気ですかぁ!!!
元気があればなんでもできる!!!
元気があればマラソンも走れる!!!
ということで、ついに鹿児島マラソンが開催されました!
書き進める前にまずは、鹿児島マラソンに関わった全ての方々に感謝の気持ちをお伝えしたいです。
大会運営、ランナー、応援者、テレビで観てた方々、交通規制に巻き込まれた方々、その他すべての鹿児島マラソンに関わった方々、本当にありがとうございました!
4年ぶりということで、ランナーだけでなく、大会に関わった全ての人それぞれの想いの詰まった大会になったのではないでしょうか。
落武者の鹿児島マラソンの1日を書いていこうと思います。
長文になると思いますが、お時間がある時にでもご覧ください(^ ^)
鹿児島マラソン2023 〜落武者編〜
2020年、新型のコロナウイルスが世界中で流行した。
人間にまつわる森羅万象が立ち止まった。
旅行を計画していた人、留学をしようとしていた人、新たな社会に飛び込もうとしていた人、そしてマラソン大会を走ろうとしていた人…。
ただの日常がどれだけ幸せであったことか…。
どれだけの人がどれだけの犠牲を払ったかは、最早計り知れない。
気付いたら3年もの”時”が流れていた。
まさに我々にとって”空白の時”ではないだろうか。
しかし、ついに”時”が動き出した。
2020年から中止となっていた鹿児島マラソンが4年ぶりに開催された。
完全に元に戻った大会というわけではないが、ランナーたちが鹿児島の地を駆け巡ったことは紛れもない事実として残った。
そんなランナーの一人である、落武者の話をこれから書き進めていく。
話は鹿児島マラソンの1ヶ月半前から始まる。
菜の花マラソンを走り終えた落武者は、1週間寝た切りになった。
怪我の影響で全く走れてなかったにも関わらず、昔取った杵柄で体の限界を超えて走り、4時間ほどでゴールした。
その影響で寝た切りになってしまった。
体力だけでなく、筋力も限りなく落ちてしまった。
寝た切りから回復して走り始めた際、あまりにも酷い状況だった。
まずは、筋力回復をしなければならなかった。
しかも、鹿児島マラソンまで期間は全くなかったので、急ピッチで行う必要があった。
筋力はまだ不十分な状態だったが、急いで体力の回復も行わなければならなかった。
なんとか練習で42kmのロング走をすることが出来たが、確かな手応えを感じることなく、鹿児島マラソンの二日前の金曜日となった。
その日は6kmの軽いジョグだった。
大会をどのように走るかイメージしながら気持ち良く走っていた。
5kmを過ぎた辺りで、右ふくらはぎに妙な突っ張り感が出てきた。
「これは…一年前に痛めた古傷じゃないか…。」
すぐに立ち止まり、足の状態を確認した。
あの時の記憶が戻ってきた。
これは間違いなく、あの時痛めたやつだ…。
家に帰り着き、様々確認したが、確定的だった。
次の日の朝、目覚めと同時に右ふくらはぎを動かした。
治ってるんじゃないかと思いながら。
治ってなかった。
その日は最善を尽くしたが、どうやら治る気配はなかった。
土曜日の夜、ここ半年ほどで発見した謎の持久力向上飯である海鮮丼をランナー2人と一緒に食した。
初めは海鮮丼ではなく寿司だったのだが、握る手間を省ける海鮮丼に落ち着いた。
どうしてあんなにも持久力が持続するのか全くわからないが、劇的な持続があるのでこれを見たランナーはぜひ試してほしい。
(実際、三人ともレースを調子良く走れた。)
最近娘と一緒になってハマってるフォートナイトをしてから、ロキソニンを飲んだら次の日に治ってるんじゃないかという謎の期待をしながら飲んだ。
昔は大会への緊張や興奮で寝れなかったが、ストレッチをしたら寝れることを発見してから問題なく入眠できるようになった。
大会当日、5時に目が覚めた。
右ふくらはぎを動かしたら、若干和らいでる気がした。
スマホで世界状況に異常がないことを確認し、5時30分に起き上がった。
ピョンピョン飛んでみたら、なんと、普通に痛かった。
この時点で右ふくらはぎの痛みとタイムは諦めた。
それからとりあえずハチミツ餅を4個食べた。
いつもだったら無理矢理胃袋に詰め込むし、興奮からなのか味なんて感じなかったのだが、この日は普通に食べれたし味もした。
患者さんにテーピングをお願いされていたことを思い出し、少しずつ準備を始めた。
7時45分までに手荷物を預けないといけなかった。
患者さんへのテーピングが終わり、家に戻った。
そこで実は自分に時間がないことを初めて認識した。
焦り始めたぼくは、急いで落武者メイクをした。
右ふくらはぎと腰にテーピングもした。
何か忘れ物がある気がするけど、急いで外に飛び出た。
荷物置き場まで約1.5kmほどある。
急いで走った。
右ふくらはぎの痛みは強くはないが、ほんのり女性の髪から香るシャンプーの香りのように感じられた。
信号で止まって屈伸をしたら、自分が短パンを履いてないことに気付いた。
過去にもそんなことがあったので、最早その程度で動揺するぼくではなかった。
関ヶ原から鹿児島まで落武者で走り切るという謎の苦行を終えているぼくにとって、その程度のことは屁の突っ張りにもならない。
荷物置き場の入り口に7時48分に着いた。
係員がいたので入りたい旨伝えると、時間なので入れないとのことだった。
鹿児島タイム(時間にルーズな県民性)があるから大丈夫と思っていたぼくは焦った。
しかし、どうやらスタート地点に預ける場所があるとの説明だった。
安堵してスタート地点に向かい、その近くの係員に荷物置き場の場所を聞いたら、そんなものはないとのことだった。
ぼくは焦った。
もしかして、リュック背負いながらフルマラソン走るのか?と若干の覚悟をしながら歩いていると、偶然にも家族に出会えた。
↑奇跡の遭遇を果たした時の写真
大会の緊張からか、顔が引きつっていることを確認できる。
家族にリュックを預けて、スタート地点に向かった。
患者さんや知り合いなど、多数の人たちに野次られながら歩いた。
お偉いさん方の紹介が始まり、スタートまで10分となった。
そして、8時30分、それぞれの鹿児島マラソンが始まった。
ぼくはというと、とりあえず右ふくらはぎにシャンプーがほんのり香る程度の痛みがあった。
スタートから10kmを4:40/km前後で走り、そこから4:30/km以内で走り、あわよくば3時間10分以内で走れたらなぁと考えていたが、まずそれを諦めた。
とにかく、痛みが強くならないように慎重に走った。
この日は雲一つない快晴で、水分補給が鍵を握っていた。
給水所では喉が乾いてなくても、必ず水分を摂取した。
関ヶ原ダイナミック帰宅を真夏に経験したこともあり、暑さに関しては最後までほとんど感じることはなかった。
スタートから1kmほどで患者さんから声を掛けられた。
少し話をして、お互いの検討を祈り別れた。
落武者に対する沿道からの声援は今回もすごかった。
『落武者頑張れ〜〜〜!!!youtubeも観てるぞ〜〜〜!!!』
『え、何あれ!?怖!!』
『あの落武者また走ってる〜!』
こんな声がどこからともなく、たくさん聞こえてきた。
走りながら落武者のことを知っているというランナーからも結構声を掛けられたり、写真を撮られたりもした。
どうやら落武者の認知度は高まっているようだ。
自分では認識していないが、ランナーの間ではそこそこ知れ渡っているらしい。
落武者コスをやめる気はないけど、益々やめれなくなってきた。
自宅近くというか、ほぼ地元の前を通ると知り合いからの声援もあった。
この区間は百戦錬磨のぼくでも、ただただ恥ずかしいという思いしかなかった。
大会運営側にも知り合いがいて、その人から声を掛けられた。
ぼくが恥ずかしがってるのを知ってるからなのか「さかうえ先生頑張れ!落武者先生頑張れ!PTA会長頑張れ!」と連呼された。
人差し指で「シーーー!!!」と言いながら逃げるようにその場を駆け抜けた。
この辺りで左の足裏にマメが出来たが、その痛みのお陰で右ふくらはぎの痛みが軽減した気がした。
この程度の距離とスピードでマメができるなんて普段だったらあり得ないけど、右ふくらはぎをかばって走ってたからと思われる。
トンネルを駆け抜けると13km地点の仙巌園にたどり着く。
そこの声援は毎年激しいので、4年ぶりの今回はどうだろうかと期待が膨らんでいた。
耳を澄ましてみると、声が聞こえて来た。
遠くからでも聞こえてくる声援に心踊らされた。
落武者は大きく口を開け、キツそうな顔を演じた。
学生を含めたボランティアの人たちの大きな笑い声と声援が飛び交った。
ぼくは「これだよこれ!!!このやり取りがマラソン大会の魅力なんだよ!!!」と思いながらそこを駆け抜けた。
確か15km地点前後で、前回大会で最初から最後までデッドヒートを繰り広げた患者さん(obiさん)から声を掛けられた。
少し話をしたら、どうやら今回もデッドヒートを繰り広げる予感がした。
右ふくらはぎの痛みは坂道を登る時に結構強く出るものの、走れなくなるというほどではなかった。
痛みの度合いとしては、エレベーターの中でちょっとミスト量が多かった香水の香りくらいになっていた。
(補足として、その香りは不快なものではなく、いい香りだけど、ちょっとキツイかな?的な感じだ。)
トコトコと足の様子を伺いながら走っていると姶良にたどり着いた。
姶良は声援がたくさんあるポイントなので、元気モリモリになる。
「みんなで楽しむしかない!」
口を大きく開け、キツそうな顔をして姶良への坂道を降った。
人がたくさん見えてきた!
人の笑い声が聞こえてきた!!
人の声援が聞こえてきた!!!
みんなの爆笑する声が姶良に響き渡っていた。
自己陶酔に浸りながら、折り返し地点から踵を返した。
姶良の盛大な声援を背に、あっという間に鹿児島市内へ向かう坂道を登り始めていた。
目の前に見えていた桜島が、走っているといつの間にか左側にあった。
錦江湾は凪の状態で、静かな波の音が聞こえていた。
そんな音の先から「お〜い!お〜い!頑張れ〜〜〜!!!」という声が聞こえてきた。
声の方向を見ると、カヌーやサップから応援されている方々がいた。
手を振り、声援に応えた。
ありがたいと、手を合わせた。
鹿児島マラソンは景色が変わらず面白くない、という声を聞く。
確かに、この10号線の区間はそう言われてみればそうである。
しかし、ここの楽しみ方がある。
それは対面するランナーとの応援合戦だ。
「頑張れよ!」との声に、「そっちもな!」の声。
ハイタッチをしてお互いパワーをもらったり、大きな声でエールを送りあう。
これらは他の大会では中々ない楽しみ方ではないだろうか。
フルマラソンは究極の個人競技だが、苦しみを分かち合える人同士の「頑張れよ!」は本当に力になる。
今年はコロナの関係もあって無理だったが、来年から鹿児島マラソン実行委員会はこの区間をうまく活用して欲しい。
前日海鮮丼を一緒に食べた二人組が、遠くから大きな大きな声で「落武者〜!!!」と声をかけてきた。
その人たちとバチ〜ンと激しいハイタッチをして、お互い元気とエールを交換した。
手に残るジンジンとした感触を握りしめ、改めて気を引き締めて走った。
他にも何人かとハイタッチで元気を分かち合った。
30km地点前後で良い感じで走るランナーがいた。
テンポが良いランナーの後ろにつくと、調子良く走れるので、このランナーの後ろについた。
ゼッケンには「愛媛」と書かれていた。
沿道の声援が「落武者〜頑張れ〜!」とあるので、その人が後ろを振り返った。
落武者を二度見して驚いていた。
そりゃそうだよね、あんな化け物が後ろにいるんだから。
そこで少し会話をした。
落『愛媛から来たんですか?』
青年『実家が愛媛で、今は京都の大学に行ってます!』
落『まさか、京都大学ですか??』
青年『そのまさかです!』
落『おぉ!日本の未来はお願いしますよ!』
こんな会話をしながら、32kmまで一緒に走り、彼はそこからスパートをかけるとのことで、「ぼくの分まで走ってくださいね!」とハイタッチをして別れた。
『ぼくに追い付かれないでくださいよ!』
と後ろから声をかけて、彼は少しだけ手を挙げて走り去った。
なんとも楽しいひと時だなと、ただひたすらマラソン大会を楽しんでいた。
普段外を走ってて、声をかけるなんてないからね。
大会だからこそ、一瞬の出会いを楽しむことができる。
それが女性だったら尚のこと素晴らしいが、ぼくの周りには一人も女性がいなかったし、居たとしてもなんだかんだ結局シャイボーイなので、メンズにしか声をかけないのがぼくのセオリーだ。
その後、デッドヒートを繰り広げると思っていたobiさんが横に現れた。
話ではぼくの方が圧勝すると思っていたので、ついつい「ショートカットしたんですか!?」と声を荒げた。
どうやら調子が良いらしく、少し並走したら颯爽とぼくを追い越して走り去った。
心の中で「裏切り者!」と叫びながらなんとか食らい付きたかったが、足の痛みが増しており、ついていけなかった。
足の痛みの度合いは、エレベーターの中で放屁をして、それがこもった臭いのような痛みになっていた。
obiさんに追い抜かれたところで、沿道の女性がカメラを向けながら並走し始めた。
その先にはリボンを浅倉南のようにフリフリしながら応援している女性もいた。
モテる男は大変だなと思いながら、そこを走り去った。
実は患者さん親子だった。
不覚にも全く気付かず、ただのファンだと思っていた。
失礼しました!!!
テクテクと走っていると、もう少しで仙巌園に着きそうなところまで来た。
少し遠くにobiさんの姿が見えていたのが、段々と近付いてきた。
ついに真後ろまで追い付いたので、ぼくはジョーズのテーマ曲を歌い出した。
『デ〜デン、デ〜デン』
obiさんがパッと後ろを振り返ったら、なんと別人だった。
上下同じような服着てるし、髪型も同じ感じだったので、ぼくは完全にobiさんと思っていた。
『うわ!こんな衣装の人に負けちゃダメだな!』
と言われたので、
『そうですよ〜、負けちゃいかんですよ〜、頑張りましょうね!』
となんとか誤魔化した。
あの時ジョーズになって驚かせてしまったランナーの方がこのブログを見ていたら、ここで謝罪します。
「驚かせてしまい、失礼しました!人違いでした!」
確かこの方を抜き去り、仙巌園を過ぎ、トンネルに入った。
後ろから「ふうぇ~、ふうぇ〜、ふうぇ〜」と荒い呼吸音が響き渡っていた。
きっと一生懸命自分と戦っているんだろうと、心の中で「頑張れ!」と応援していた。
トンネルを抜けると、「光〜頑張れよ!」と声がしたのでそっちの方を見ると父がいた。
↑その時の写真
なんとも良い構図だと思うし、ポーズもしっかり決めている。
清水、上町地域に戻ってきた。
行きで居た運営側の患者さんが同じところに居た。
何時間も同じ場所にいて、大会を見守ってることに「ありがたい」という感謝の気持ちが先に出た。
しかし、また「頑張れ!PTA会長!」と茶化してきたので、人差し指で「シーーー!」としながら走り去った。
長田陸橋を登ろうとしたところで、なんと京都大学の学生さんに追い付いてしまった。
青年『まさかの追い付かれちゃいました〜!』
落『こうなったら最後まで一緒に走りましょう!』
と声を掛け、並走した。
すると前を歩いてる二人組がいた。
もちろん見知らぬ人たちだったが、声を掛けた。
『ここまで来たら一緒に走りましょう!一緒にゴールしましょう!』
と鼓舞すると、その二人組は笑いながら走り始めた。
↑ちょうどその時の写真がツイッターにあったので、パクリとパクってきた
陸橋を渡り終えると、その角にはぼくの手ファンクラブの会長・副会長・書記の三人が居た。
相変わらずぼくの追っ掛けをしているようで、キャッキャ言いながら応援していた。
電車通りに出ると、ラストスパートだ。
落武者の顔を作りながら、4人で走った。
並走ではないけど、気持ちを一つにして走った。
『まさか落武者とゴールするなんて…』
と二人組が話しているのが聞こえた。
彼らにとっても、良い思い出になったのではないだろうか。
市役所の前に置かれているゴールが目に入って来た。
足が痛いけど、最早そんなのどうでも良かった。
スピーカーから「落武者が帰って来ました!」と大音量で聞こえてきた。
手を広げてゴールし、ヒラリと振り返り、42kmの旅路を無事に終えたこと、そして鹿児島マラソンに関わった全ての人たちへ感謝の気持ちを込めてお礼をした。
そして、まずは二人組と握手をして、お互いの健闘を労った。
その後、京都大学の青年と熱い握手をして少しだけ話をした。
もう出会うこともないだろうが、それで良い、いやむしろそれが良い。
一瞬の出会いを楽しめるのも、マラソン大会ならではなのだ。
走り切った余韻に浸りながら歩いた。
そういえば家族の姿がないな、と思いながら食べ物やらがある中央公園にたどり着いた。
ライバルのobiさんが待ち構えていた。
お互いの健闘を労い、obiさんは荷物を取りに地下へ向かった。
ここで思い出して欲しい。
ぼくの荷物は家族に預けていたということを。
あの荷物の中にメイク落としやら着替えが入っている。
ぼくは家族と会わない限り落武者のままなのだ。
妻に連絡するが、よくわからないけど、すぐにいけれないとのことで、落武者放置プレイが始まった。
ポツンと落武者が公園で座っているのを想像して欲しい。
ぼくとしては、渋谷の交差点を裸で歩いてるくらい恥ずかしかった。
みんなが見てくるし、「写真を撮っても良いですか?」などたくさんの方々に声を掛けられた。
obiさんとまた再会して、写真を撮った。
よく言われるのだが、メイクは全く落ちない。
全天候型で、豪雨でもインドでも関ヶ原でもメイクは絶対に落ちない。
obiさんが気を使って、一緒にいてくれたが、一向に来ない家族。
obiさんに「帰られて良いですよ」、と言い、1人でブラリ落武者の旅をすることにした。
羞恥心により、10秒でやめて座った。
謎の放置プレイから数十分経つと、1人の娘が来た。
しかし、肝心のリュックを持っていない。
娘と2人で座り込んで、お互い微妙な空気を過ごした。
貝になりたい親子の元へ、もう1人の娘が来た。
ついにメイクを落とせる時が来た。
トイレでメイクを落としていると、隣で手を洗ってる人から「いつも速いですよね」と声を掛けられた。
お礼を言いながら、メイクを落とした。
メイクを落とし終わり、外に出るとぼくのことを誰も見なくなった。
これでぼくの鹿児島マラソンはやっとで終わった。
やっぱりマラソンは楽しい!
タイムだけを見たら目標からは程遠いけど、リタイヤせずに走り切れたことが何より嬉しかった。
マラソンはランナーの数だけ想いがある。
良い時もあれば、悪い時もある。
それらすべてを含めたのが”マラソン”だ。
来年は悲願のサブ3を達成するためにも、やる気・元気・負けん気で頑張る。
毎回毎回書いてるが、次こそは絶対にサブ3するもんね!!!
おいら、頑張っちゃうもんね!!!
長文にお付き合いいただきありがとうございました!
今回は動画を作成する予定ですので、そちらもお楽しみに!
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